2008年11月02日
新島襄の旧邸~京都・寺町通り~
新島襄は同志社大学の創設者です。
新島襄の住んでいた家は、京都御所の東側に位置する寺町通りにあります。
この家のとなりが、同志社英学校のあった場所で、すなわち、同志社の発祥の地です。
寺町通りに面した旧邸の門構えは、京都の建物そのもの。
しかし、門の中の彼の住まいは、バルコニーのあるしゃれた洋風の外観です。
明治初めのその当時では、非常にめずらしい建物だったことでしょう。
1階の玄関右には、応接間。
この応接間には、奥様の八重さんが演奏していたオルガンが置かれています。
今でも、この足踏みオルガンの演奏会が開かれています。
1階には、食堂と和室のお座敷、そして彼の書斎があります。
そして、トイレは、和と洋をとりいれた板張りの日本でも初めての洋式トイレ。
1階の台所も、当時の京都は土間形式が一般的でしたが、ここは床板が一面に張られ、その上に流しが置かれていました。
正面の階段もしゃれた感じ。
この階段の塗装の剥がれは、きっと新島襄や八重夫人などの上り下りの跡でしょうか。
2階には、寝室。
洋風の窓の向こうは、京都御所。
寝室の横からは、バルコニーに続いています。
そのドアの上は、障子。
2階の和室の居間には、素敵な花が描かれた襖。
1878年(明治11年)9月に竣工したこの新島邸。
今年で130年になります。
明治、大正、昭和、そして平成。
時代も流れ、教育の内容も質も変わっていく中で、あらためてこの空間に身をおいた時、一人の人間の蒔いた一粒の麦が、たった130年でこれほどまでの多くの実を結んだことに、人間の力のすごさ、すばらしさを感じました。
新島襄旧邸のホームページ
新島襄の住んでいた家は、京都御所の東側に位置する寺町通りにあります。
この家のとなりが、同志社英学校のあった場所で、すなわち、同志社の発祥の地です。
寺町通りに面した旧邸の門構えは、京都の建物そのもの。
しかし、門の中の彼の住まいは、バルコニーのあるしゃれた洋風の外観です。
明治初めのその当時では、非常にめずらしい建物だったことでしょう。
1階の玄関右には、応接間。
この応接間には、奥様の八重さんが演奏していたオルガンが置かれています。
今でも、この足踏みオルガンの演奏会が開かれています。
1階には、食堂と和室のお座敷、そして彼の書斎があります。
そして、トイレは、和と洋をとりいれた板張りの日本でも初めての洋式トイレ。
1階の台所も、当時の京都は土間形式が一般的でしたが、ここは床板が一面に張られ、その上に流しが置かれていました。
正面の階段もしゃれた感じ。
この階段の塗装の剥がれは、きっと新島襄や八重夫人などの上り下りの跡でしょうか。
2階には、寝室。
洋風の窓の向こうは、京都御所。
寝室の横からは、バルコニーに続いています。
そのドアの上は、障子。
2階の和室の居間には、素敵な花が描かれた襖。
1878年(明治11年)9月に竣工したこの新島邸。
今年で130年になります。
明治、大正、昭和、そして平成。
時代も流れ、教育の内容も質も変わっていく中で、あらためてこの空間に身をおいた時、一人の人間の蒔いた一粒の麦が、たった130年でこれほどまでの多くの実を結んだことに、人間の力のすごさ、すばらしさを感じました。
新島襄旧邸のホームページ
Posted by Norichan at 17:00│Comments(2)
│京の旅
この記事へのコメント
生活空間である住まいをこだわれる方は、ご自分の生き方にも強い信念を持たれている方が多いと建設業の方から聞いたことがあります。
特に水回りは、洋風の造りを取り入れたかったのでしょうね(^○^)。
トイレの観察をするのが大好きなみりは、ちょっとそのおトイレに興味があります。
フタをあけて中を見てみたいです(^○^)。
Posted by みり at 2008年11月02日 23:42
みりさんへ♪
トイレはあまり見えない空間ですから、だから美しくしておくのが鉄則なのでしょうね。
このトイレは木作りでスペースも広かったです。
367b中までは見れませんでしたが、たぶん下に壺があるんだと思います。
まだ水洗ではなかったでしょうから。
Posted by Norichan at 2008年11月03日 06:46