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2008年08月10日

ダムに沈む村の昔

ダムに沈むこの村は、1783年(天明3年)の浅間山の噴火による泥流の被害を受けた村でした。
この泥流によって、長野原町や嬬恋村など吾妻川流域を中心に1,500人の死者を出したといわれています。
川原湯温泉付近もこの泥流の被害に遭い、現在、その当時の東宮遺跡の発掘調査が行われています。
遺跡の場所は、長野原町川原畑東宮地内で、吾妻川左岸に広がるところ。
ちょうど吾妻線の横にありました。

ダムに沈む村の昔

私が訪れた時は、暑い中を、多くの方々が発掘の最中。
細かくて大変な作業です。

ダムに沈む村の昔

私が興味深げに発掘現場を見ていたら、この発掘をされている方が私に「案内しましょうか」と声をかけてくださいました。
財団法人群馬県埋蔵文化調査事業団の調査研究グループリーダーの飯田先生でした。
そこで、お忙しい中を案内していただきました。

この遺跡は、屋敷跡3・畑19・石垣9・溝5、道4などが見つかったそうです。
これは、きっちり積まれた石垣です。

ダムに沈む村の昔

これは、板の間だったようです。

ダムに沈む村の昔

溝も、石組みがされて、しっかりとしたものでした。

ダムに沈む村の昔

発掘現場には、漆器のようなものが顔を出していました。

ダムに沈む村の昔

発掘現場では、どんどん新たな発見があり、ちょうど布のようなものが見つかったと先生に報告されていました。

ダムに沈む村の昔

225年前のここには、まさしく普通の毎日の生活があったことがわかります。
それが、一瞬のうちに泥流に飲み込まれてしまったのです。
山の噴火による泥流被害は、天災です。
自然の力の恐ろしさがわかります。

でも、今度は人間の手で、この土地を水の底に沈めてしまう。
自然の力よりも、人間(政治屋)はもっと恐ろしいものだと、あらためて感じました。

飯田先生は、そのあと、車でわざわざ事務所の収蔵庫にも案内してくださいました。
そこには、回りの遺跡で発掘された縄文時代、弥生時代などの土器も展示されていました。

ダムに沈む村の昔

飯田先生本当にありがとうございました。

そして、この事務所の建っている場所が、昔の長野原町立第一小学校の跡地でした。

ダムに沈む村の昔

ダムに沈む村の昔









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Posted by Norichan at 20:00│Comments(0)
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